上杉憲忠書状(本間遠江入道殿江右京亮憲忠之状)

(宝徳二)(一四五〇)年
差出 上杉憲忠
宛所 本間遠江入道

江の島合戦後、鎌倉公方・足利成氏しげうじと争った上杉憲忠のりただが鎌倉へ戻れるよう幕府に協力を依頼した。その後も鎌倉府内の対立は改善されず、享徳三(一四五四)年に成氏は憲忠を謀殺ぼうさつし「享徳の乱」が勃発した。


上杉憲忠書状

封紙
釈文

(封紙ウワ書)
「謹上 本間遠江入道殿 右京亮□□〔憲忠〕
就西御門江御移、厳重仁被成下  御内書候、
上意之至誠以忝畏入存候、如被仰下候、
尤弥不存余儀、及不慮之雑説候共、
淵底可得上裁候、以此旨可預御披露候、恐々謹言、
八月七(宝徳二年)日      右京(上杉)亮憲忠(花押)
謹上 本間遠江(季綱ヵ)殿

読み下し文

西御門へ御移りに就き、厳重に御内書を成し下され候、上意の至り誠に以てかたじけなかしこみ入り存じ候、仰せ下され候如く、尤もいよいよ余儀を存ぜず、不慮の雑説に及び候とも、淵底えんてい上裁をべく候、此の旨を以て御披露に預かるべく候、恐々謹言、