足利頼淳書状(頼淳公御書)

(天正一八)(一五九〇)年
差出 足利頼淳
宛所 増田長盛

足利頼淳よりずみが増田長盛を通して豊臣秀吉に対し小田原攻めの成功を祝し、さらに下野国住居の礼を述べる。頼淳は、子・国朝が喜連川の地を与えられると、ともに移り住んだ。また、国朝が上洛し改めて礼を述べること、娘の島子についても取り計らいを依頼している。


足利頼淳書状
釈文

関東凶徒蜂起、為討戮御下向候処、不遷時日被達御本意、都鄙平均、寔目出珍重奉存候、於愚禿茂本望満足候、就中以御芳恩、野州之内心易令住居候、還御以来則遂参謁、御礼雖可令言上候、凌寒気老啒更不覃了簡付而、愚息国朝致上洛候、殊娘之儀上置申候上者、国朝同前ニ御膝下ニ被閲候者、弥々可為怡悦候、以此旨宜被達高聞候、猶口門申含候、恐々謹言、
 極月十一(天正一八年)日  左兵衛督頼淳(花押)
 謹上増田右衛門尉殿

読み下し文

関東凶徒蜂起ほうきす、討戮とうりくの為、御下向おんげこう候処、時日をうつさず御本意を達せられ、都鄙とひ平均す、まことに目出珍重に存奉り候、愚禿ぐとくに於いて茂本望満足に候、就中御芳恩を以て、野州の内に心やす住居すまいせしめ候、還御かんきょ以来則ち参謁さんえつを遂げ、御礼言上せしむべく候といえども、寒気を凌ぎ老啒ろうこつ更に了簡におよばざる付きて、愚息国朝上洛致し候、殊に娘の儀上げ置き申し候上は、国朝同前ニ御膝下にさしおかれ候わば、弥々いよいよ怡悦いえつたるべく候、此の旨を以て宜しく高聞に達せらるべく候、猶口門くもんに申含め候、恐々謹言、